2009年9月27日日曜日

あたりまえに生きて、あたりまえに死ぬ

連休中、「おばあちゃんが、ぼけた」という本を
友人からすすめられて読みました。
カテゴリーとしては児童書になるようです。

笑える。そして泣いてしまう。
最後は号泣に近い状態でした。

「第2宅老所よりあい」という施設の所長、村瀬孝生さんが
そこで出会った老人の方々との
エピソードをいきいきと描いています。
システムで人を管理することの問題点、
痴呆の老人を核家族の中でどうやって支えていくのか、
現代社会であたりまえに生きて、あたり前に死ぬことの難しさ
など、なかなか難しいテーマなのですが、
暗さを微塵も感じさせないタッチで読ませてくれます。

人間臭いなあ。。
ひたすら温かみのある目線で描かれた
高齢者の方々の生きる姿を読ませていただくうちに
自分の社会で生きていくために身につけた鎧のようなものが、
ベリベリとはがされていくように感じました。

その人がその人らしく生きることが尊重されていい。
それには、人はそれぞれのペースで生きていることを
もっと理解しなくてはいけない。
そして、生きるということはいつも死と隣り合わせ
だということを覚えておかなくてはいけない。

老人問題なのですが、
私らしく生きていいんだという
自分の生き方を肯定する勇気をいただいたし、
また、子育てする母親として
子供のペース、人格を尊重しなくてはいけないという
とても身の引きしまるメッセージをもらったような気がします。

きれいなものばかりに覆い隠されてしまっている
今の社会の中で、すっかり忘れてしまった
人間臭さを思い出させてくれる本でした。

人間臭さを排除しすぎたとき、
人は精神が病んでいくのではないかと感じました。
心の健康を取り戻すために、
秋の夜長にぜひどうぞ。。


「ぼけ」ることが素晴らしいなんて思わない。
素晴らしいと思えることは、人はたとえ「ぼけ」ても
一所懸命に生きるということ。
そのことを認めない社会をぼくたちは望まない。
どんな人だって「必要のない人」などいない。
ひとりひとりの存在が認められてこそ社会は構成される。
人は社会を創り、その社会から人は創られる。
「ぼけ」ても安心な社会を創りたい、とぼくは思っています。
            〜「おばちゃんが、ぼけた」本文より〜



2009年9月1日火曜日

ひとつずつ乗り越える

久しぶりのブログ復活。
夏休み中は、子供にエネルギーそそぎまくっていたので
思考が停止状態でした。
また少しずつ自分の心を見つめていきたいと思います。

夏休みの途中から、何か物を食べると「歯が痛い」と言っていた娘。
「うそっ」びびりつつ、認めたくない私。
歯医者は何度かお世話になっていて、
治療が終わって数ヶ月たつと違う歯が虫歯になる、
というパターンを繰り返していました。
ちゃんと磨いているのなあ〜、
新しい虫歯を見つけるたびにブルーな気分。
しかし、まだ乳歯だし、という心の余裕がありました。

ところが!新たな虫歯は永久歯だったのです。
ショックでしばらく「あーあ」とぼやかずにいられませんでした。
いつも後で反省するのですが、
こんなとき一番つらいのは本人に違いないのです。
それなのに、私は自分の不安の方が勝ってしまって、
「甘いもの食べ過ぎるから」
「同じ歯は生えてこないんだよ」
いろいろネガティブなことを口走ってしまいます。
どうして一言「大丈夫。何とかしよう。」って言ってあげられないのだろう。
子供の問題を吸い込んで、親の方が動揺してしまう。
これは精神修行が足りないとしか言いようがないです。
せめて、本人のいないところで落ち込むべきだろうと思います。
ごめんね。あかりん。

今日は新しい歯医者を探して行ってきました。
とても丁寧に対応してくれる女医さんで、緊張していた娘も
何とか椅子に座っていることができました。

そして寝る前に「行って良かった」
疲れ顔の私に、精一杯のねぎらいの気持ちを伝えてくれました。
「次回は麻酔します」と言われて、とても不安なはずなのに。

娘なりに色々な感情を乗り越えようとしているのだと
はっとさせられました。
それをどうやってサポートするのか、
親の仕事はそれに尽きるのだと思います。

しばらく歯医者通いが続きます。
親業を学ぶとても大切な時間になりそうです。